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K-219(かー219)は、ソ連海軍のナヴァガ級 弾道ミサイル原子力潜水艦(NATOコードネームは"Yankee I")の一隻である。本艦は、16基(後に15基)のUDMHとIRFNAで推進するR-27液体燃料ミサイルを搭載し、34発の核弾頭を装備していると推測される。 ''K-219''は、冷戦中に発生した潜水艦事故の中でも最も多く語られる艦である。 == 事故 == 1986年10月3日、バミューダの北東で哨戒活動中の''K-219''はミサイル発射塔内の爆発と火災にみまわれた。ミサイル用ハッチカバーのシーリングが破損し、ミサイル発射塔(サイロ)内に流入した海水がミサイルの液体燃料残留物と化学反応を起こした。ソ連海軍は、この漏水が付近である種の作戦を行っていた米潜水艦「オーガスタ」との衝突に起因するものであると主張したが、米海軍はあらゆる衝突を否定した〔 ''K-219''は明らかに以前にも同種の不具合を経験していた。サイロ内に漏れ出した海水とミサイル用燃料の化学反応により発生した爆発の事故により既に1基のミサイル用ハッチカバーが溶接で恒久的に閉鎖されていた。 書籍『敵対水域 ソ連原潜浮上せず』(原題:Hostile Waters)の著者達は、生存者、航海日誌、公式の調査報告書、米ソ両国の陸上/海上要員の証言や記述を基に事故を再構築した。モスクワ時間0530時少し過ぎにK-219の第6サイロ内に漏れ出した海水がミサイルの燃料と反応して硝酸が発生した。K-219の兵装士官のアレクサンドル・ペトラチコフ(Alexander Pertachkov)は、この事態にミサイル用ハッチカバーを開放してミサイル発射管内を海水で満たすことで対処しようとした。0532時少し過ぎに第6サイロで爆発が生じ、収納されていたRSM-25ロケットとその2基の弾頭は第6サイロから海中に放出された。 事故当時K-219の副長のイーゴリ・クルジン(Igor Kurdin)大佐と米海軍のウェイン・グラスドック(Wayne Grasdock)少佐は『''Undersea warfare''』の中で爆発が発生した状況を以下のように記している: 爆発で3名の水兵が死亡し、2基の原子炉を停止させるために艦は浮上した。この原子炉の安全の確保は、僅か19歳の徴兵された水兵セルゲイ・プレミーニンが自らの生命を犠牲にして稼働中の1基を停止させて成し遂げた。プレミーニンは炉を停止させると密閉ドアの反対側にいる戦友達の元にたどり着こうとしたが、ドアを開けることができずに被曝により死亡した。艦長のイーゴリ・ブリタノフ(Igor Britanov)中佐は、彼方の母港ガジーヴォ(Gadzhievo)までソ連の貨物船の曳航により帰港するように命じた。 曳航索が繋がれたが曳航の試みは失敗し、有毒ガスが艦の最後尾区画まで漏れ出すとブリタノフは本国からの命令に反して総員退去と曳航船への退避を命じた。ブリタノフは''K-219''に留まった。 艦の修復と哨戒の継続がブリタノフにはできないことに怒ったモスクワは、''K-219''’の保安士官ヴァレリー・プシェニーチニ(Valery Pshenichny)に対し艦の指揮を引き継ぎ、生存する乗組員を艦に戻し、任務に復帰するように命じた。しかしこの命令が実行される前に艦への浸水は回復可能な量を超え、1986年10月6日に''K-219''は深さ3マイル以上のハッテラス(Hatteras)深海平原の底〔〔〕の水深約6,000 m (18,000 ft)へ沈んでいった。沈没の最大の要因は定かではないが、ブリタノフ自身が自沈させたという形跡が幾つか示されている。''K-219''に搭載されていた核兵器一式は艦と共に失われた。 1988年にソ連の海底探査船ケルディッシュ(''Keldysh'')が沈没したK-219の真上に停船し、潜水艦が正立した状態で海底の砂地に沈船しているのを発見した。艦は艦橋(Conning tower)の前で2つに折れた状態で、ミサイル・サイロのハッチの幾つかはこじ開けられ、ミサイルは弾頭と共に消え去っていた。 プレミーニンは、その勇敢な行為により原子炉の安全の確保したことで死後に赤星勲章(Order of the Red Star)が授与された。ブリタノフは、怠慢、サボタージュ、反逆の罪で訴追されたが、収監されずにスヴェルドロフスクで軍法会議に向け待機させられた。1987年5月にモスクワで新しい国防大臣が就任すると、ブリタノフに対する訴追は取り下げられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「K-219 (原子力潜水艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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